看板屋日記。

2008年06月 | ARCHIVE-SELECT | 2008年08月

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20年間の軌跡~17~

記事のアップを楽しみに待ってくださっていた?!(笑)読者の皆さん、しばらく更新が滞って申し訳ありませんでした。なにせ昔の話、思い出すのにも結構時間がかかるものです。なんとか17話まで来ましたが、現在にまで至るにはまだまだ長くなりそうですね・・・。昔を振り返りながら、地道にアップしていきますのでこれからもご愛読お願いいたします!

さて。。。前回の記事まではあんなに儲かって羽振りがよかったのですが、一転!ここからまた急下降してしまうわが社。(本当に山あり谷あり、波乱万丈すぎですね・・・^^;)

仕事が順調に入ってくるようになり、もっともっとという欲が出てきたのと、調子よく進みすぎていたことで奢りもあったのかもしれません、つい業務内容も、顧客関係もあちこちに手を広げすぎ、 ある時1000万円で請けた仕事があったのですが、集金しようとするとオーナーが行方不明!一銭も回収できないといううとんでもないトラブルに巻き込まれてしまいました。

当時あった貯金500万円をすべて使い、借金までして、業者支払いをして、その件はどうにかやり過ごしたものの、、、一旦下降線をたどりはじめると、その後も坂道を転がり落ちるように状況は悪い方へ悪い方へと進んでいくのでした。 会社の業績がそれまでの好調が嘘のように悪化していくとともに、借金が膨れ上がり、気付くとなんと総額3000万円を越える借金を背負うことになっていたのです! 当時私は27歳。結婚して長男が生まれたばかりでした。家族も養わないといけないし、従業員だって抱えている。こんなに借金を抱えてしまって、俺は一体どうしたらいいんだろう、、、 どーんと落ち込んで考え込んでしまったり、どうにかなるさと楽天的になってみたり。ラジバンダリーな日々への突入でした。

つづく・・・

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20年間の軌跡~16~

そんなこんなで、、、いや~~~儲からせていただきました!(笑)

車も今度は新車でポンと購入し、毎晩友達と飲み歩いて豪遊し、とにかく人生の絶好調期!なのでした^^。

飲み、というと、その頃、23歳当時、一番はまっていたのはフィリピンバー。門司港にバッカスと言うフィリピンバーがあり、日本にいて異国に来た気分を味わえるとあって、若い私はすっかりはまりこんでいましたね。小中学校時代、ずっと一緒に柔道を頑張っていた幼馴染山田(@当時は整骨院のインターン)と2人、連日通っていた気がします。。。

夜遅くに門司港までご出勤(笑)。閉店の4時まで専らマーテルのグラスを傾け、閉店後はお店の子とアフター(食事)、それから朝6時に帰還し、8時には本業の方に出勤(笑)。そんな毎日がなんと半年以上続いたのでした。片手には当時の大きな携帯電話、ポケットには札束!とにかく羽振りのよかった日々。楽しかったなぁ~~~。。。

ですが、人生そう上手くはいきません、そんな楽しい日々は当然?そう長くは続かなかったのでした・・・・・・・

つづく・・・・・

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20年間の軌跡~15~

さて、新たな気持ちで3人体制ではじめたマーキングニーズ。前はあんなに暇だったのに一転!とても忙しい日々となりました。

北九州地区では看板屋の下請けで様々な製作や現場をこなし、同時に、福岡地区ではダイエーが全盛期だったので、ダイエーの仕事を次々とうけていたものです。

そうそう、このダイエーの仕事は、当時から大変お世話になっていて、今もわが社の大切なお客様、福岡の内装屋、㈱占部製作所様からの依頼でしたが、占部の社長には仕事だけでなく、私が10代の頃から、様々な面で本当にお世話になっていたものでした・・・。(どんな面かって?詳細は申しあげられませんが(笑)、例えば、19の頃にちょっと元気があまって中洲で騒ぎを起こして、警察に連れて行かれた際に身元引き受け人として迎えに来てもらったりとかですね・・・^^;確か、その後はその足で、アルバイトやっとけ!とダイエーの現場に放り込まれたっけな(笑))そんな公私共にお世話になっている占部の社長には大人になっても頭の上がらない私です。

それはさておき。とにかく仕事が次から次に入って、徹夜、徹夜、の日々。3人ではとてもさばききれないので、アルバイトを雇ったり、友人達に協力してもらったりしつつ、それでも朝から夜中まで製作に追われる毎日でした。

ありがたい悲鳴なのですが、やっぱり休みなく朝から晩まで働けば若い私達、ストレスもたまるというもので、時々、ストレス発散の為に、夜中の3時まで仕事をして、それから出かけて朝まで飲み明かす!なんてこともしていたっけな~~。若いからできたことですね(笑)

そんなこんなで、忙しいながらも充実した日々を送っていたこの頃の私達です。。。

つづく・・・・

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20年間の軌跡~14~

「こくら~~こくら~~」

さあ、ようやく故郷の小倉に帰って来ました数ヶ月の東京生活の後では、100万都市のはずの北九州も「こんなに人少なかったっけ」というのが、第一印象だったかな。だけど、やっぱり地元は落ち着くものです。とにかく。また地元で心機一転、がんばるぞ

そして、次の日の朝。会社に行くと、私の留守中ずっと頑張ってくれていた2人が待っていました。 「この忙しいのに、いつまでもどこをウロウロしてるんだよ~~」と、無言ながらも何か言いたげに私を睨み付ける2人に「ごめん!遅くなった!」と一言。

「土産はないんだけど(所持金は全部使い果たしていたので!(笑))土産話はたくさんあるんだ!!」。。。その日は一日土産話で盛り上がりました。東京の看板屋修行。友人とつるんで遊びまわった日々、広島での体験・・・・まあ、正直、看板屋をやっていくのに、必要のないこともあったかもしれませんでも、3ヶ月の東京(+α(笑))生活は、それまでなんとなく毎日を過ごしていた私にとってなによりの転機になったし、今後看板屋として腹を据えて頑張っていく気合を入れるためにも、とても重要な日々だったのです。。。あいつらもそれはきっとわかってくれたはず

そして今度は留守中の2人の話を聞くと、、、まあなんと予想以上の大活躍でした。受注も順調に増え、製作も現場もフル回転。とにかく毎日大忙しだったようです。当然2人ともかなり腕をあげていて、やるな~~~こいつら。おれもうかうかしてられないぞ!・・・そんな2人に刺激を受け、あらためて、「よし、これからは俺も、ガンガンやるぞ~~~!!」とスイッチが入った私なのでした。

その後、そんな我々3人が、一致団結して新たな気持ちで進み始めた新生?マーキングニーズは、ありがたいことに仕事も順調に入るようになり、忙しい日々を送ることになったのでした・・・・

つづく・・・

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20年間の軌跡~13~

その日はなかなか寝付けませんでした。俺、これからどうなってしまうんだろう、、、色々な事を考えたような気がします。

そして、よく眠れないまま、朝8時位には一応起床。なんかしらの連絡があるものだろうと緊張しながら寮で待機していたところ、なんの音沙汰もないまま一日中待たされ。。。いい加減退屈していた夕方6時位だったかな、ようやくドアをコンコン、とノックする音が。昨日の、こわもての方、再び登場です

怖~~い顔に妙に優しい声。そのギャップにあらためて恐れをなしながら、「さ、いくぞ、、、」と促されついていったところ、到着したのは怪しげなお店(風○店のような、、、、まあ、お察しください(笑))

そこで、そこにいた従業員や女性達に「今日から働いてもらうことになった。よろしく頼む」と一言紹介され、私にも「じゃ、店長、まかせたぞ」と一言言うと、その「本物」はすぐにそこから去って行きました。店長???ここで?聞いてねーし!いや、まじで、勘弁してくださいよ~~~

その後のここでのことは、本編から外れすぎるので(笑)割愛しますがwww、私は看板屋です。こんなところで、こんなことしてる場合じゃありません!!北九州に戻らないと!!!

・・・そして、2週間後には、なんとか逃げ出し?次のステップへと人生のコマを進めるのでした。

つづく・・・・・・・・

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20年間の軌跡~12~

さて。何故か広島で列車を途中下車してしまった私。どうしてかな。両親が広島出身で小さい頃から よく遊びに行っていたので、懐かしくなったからかな・・・

そんな事を考えながら、夕方頃、ふらふらとネオン街を歩いていたところ、私の風貌?様子?が気に入らなかったらしい3人組のチンピラに、いきなり「なんじゃ、コノヤロウ!」とからまれてしまいました。そこで、よせばいいのに、当時はまだまだ血の気が多かった私(笑)、つい睨み返し文句も言い返してしまい、、、当然?相手は手を出してきて・・・・^^;。

いえ、私からは喧嘩をしかける気は一切なかったのですが(本当ですよ!)、相手からむなぐらをつかまれて一方的に2、3発殴られてしまっては、仏の上岡も(笑)黙っていられません。あくまで正当防衛でw、軽~く3人をのばしておきました。そして、すっきりした気分で(笑)、その場を立ち去ろうとしたところ、ふと背後に人の気配が、、、。今度はチンピラなんかではありません、「本物」の登場でした。

明らかに雰囲気が普通の一般市民とは違う50歳くらいの男性の圧倒的な威圧感に焦る私。「ちょっと来い」と一言いわれ、なんの抵抗も出来ずに「もうオレもこれで終わりかな・・・」と思いながらついていくと、、、 ついたところは事務所、、、、ではなくなんと普通の居酒屋でした。 そこで、まあ食え、とししゃもや豚バラなんかをご馳走になりつつ、「名前は?」「里は?」「何をしに広島に?」。。。質問攻めにあいました。意外と和やかな雰囲気? ただ、ひとしきり話したところで、、「おまえ、結構面白いなあ」・・・やばい、なんだか見込まれてしまったようです?!。そして、とうとう言われてしまいました、「どうせ行くところも、することもないんだろう、うちで働いてみんか?」

・・・・とても断れる雰囲気ではありませんでした。その男性の眼力に圧倒され、その男性の首から足までびっしりと埋まった刺青を見てしまっては、うなずく他なかったのです。その時、その日2度目の「オレ、終わったな・・・」という言葉が胸をよぎったのでした。

そして、その日は寮に泊まれと言われ・・・・・・

結局この後、広島でやば~~~い経験をする事になってしまうのでした。。。

つづく・・・・・・

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20年間の軌跡~11~

2軒の看板屋での修行を経験し、東京に出てきて約2ヶ月半がたつ頃、、、「ん~~。やっぱり東京落ち着かん!!」・・・そう。ちょっぴりホームシック!になった私。

ここで、ふと、地元が懐かしくなった事もあり、そういえば残してきた二人がんばってるかな~~と連絡をとってみると、、、な~んと、仕事が沢山入り、めちゃくちゃ忙しくしているとのこと。いつの間に、あいつら、、、、やるじゃん! 電話口で、「とにかく人手が必要だ、すぐ帰ってくれるよな?」という二人でしたが、自分の中ではまだ、チャンスがあれば東京で一旗と言う甘~~い考えもあり、すぐにはうんと言えず「悪い、もうちょっと待ってくれ、二人で頑張っていて欲しい。東京には絶対なにかがあるんだ!それを見つけるまでは帰れない!」・・・。

そんな大見得をきった私ですが、結局その後もなにも起こらず、なにも掴めず、、、数日後、何を血迷ったか、一攫千金をパチンコにかけ、パチンコ屋通いを始めてしまったのです。初日は羽物(当時のゼロ戦)で大勝ちし、「お~~これはいける!」と思いましたが、まあ、そんな幸運が続くはずもなく、所持金7万円も一週間程度で底をつき、、、。ここまできて、ようやく諦めのついた私は、東京でのサクセスストーリーの夢物語を断念し、傷心と共に九州へ向かう列車にのったのでした。

さて、東京に別れを告げた帰りの列車の中。一人になって、色々な事を考えました。1度きりの人生、清治お前これでいいんか?自答自問を繰り返します。いや、このままではいけない!このままでは帰れない!!

そう、ここがやっぱり私の、私たるところ?!(笑)、地元北九州に帰るはずが、なぜか降り立ったのは、途中の広島駅だったのです・・・

つづく・・・

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20年間の軌跡~10~

吉祥寺の看板屋でのアルバイトにもずいぶん慣れた1ヵ月半後、、、ここで学ぶべきものはある程度学ばせてもらった、と判断した私は、ここでの修行を終え、次の修行の場へとコマを進めることにしました。

次は、一軒目とはあえて違った雰囲気の、こじんまりとした立川の看板屋で使ってもらうことにしました。親父が1人でやっていて、従業員はパートで来ている掃除係の70歳くらいのおばちゃんが1人だけいるような、そんなところでした。

初日、私はまた気合を入れて七つ道具をもって職場へと行きました。すると、ま~ほめられた、ほめられた。「オレが今まで使ってきた中で、こんなよく出来たバイト見たことね~~~よ」と、べた褒めなんです。職人気質の頑固な社長でしたが、とにかくほめ上手でしたね~~。そうして、とても気分よくアルバイトを開始させてもらっていた私ですが、、、

2週間位たった頃。私はここに来てずっと疑問に思っていたことをつい口にしてしまうのです。ここの親父はは、シート文字を生(なま)で、貼れないようで、いつも水貼りをしていたので、つい生意気に「どうして水ばりばかりするんですか?(生で貼ればいいのに)」と。私の中では素朴な疑問でした。

しかし、ここではそれは禁句だったようで?!、明らかにムッとされ、ギロっと睨まれながら「そういうなら、お前やってみな!」とかなり不機嫌そうに言われてしまいました。

そんな言い方しなくても、、、と思いながら渋々貼ったところ、どうみても、私のやり方のほうが、ずっと早くてきれいだった事に、さらに不機嫌になってしまった社長。 このままでは引き下がれない?!と、今度は細かい指摘をしてきたのです。「おい、気泡入ってるよ、どうにかなんねいの~~」とかなんとか。私が冷静に「いえ社長、こんなのカッターで潰せばいいんですよ、ほら?」と補修してみせると、更に不機嫌さに加速度がついてしまって、その後二、三のやりとりをするうちに、とうとう社長は、「あ~もうやってらんね~」とキレて仕事を放り出してしまったのです。

仏の上岡と言われる程の私でしたが・・・?!(笑)、さすがにその社長の態度にはこちらもキレてしまい、スキージ(シートを貼るへら)を地面にたたきつけて「お世話になりました」と一言言い残してその場を去り・・・んーー。短いバイトでしたね。

今思えばこれも若気の至りのなせるワザ?!。

しかし、当時、まだまだ若かった私に、こんなことはまだまだ序章に過ぎず、今後もこういう行動をたびたび重ねてしまうのでした、、、

つづく・・・・・・・

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裏 人生の軌跡~1~

今日はさらに脱線して。私の若かりし頃のやんちゃ話でも聞いてください。(そういうリクエストがあったと聞いたもので・・・恥を忍んでw赤裸々告白です!)「番外編。裏人生の軌跡」です!

ご存知の方も多いかと思いますが、私は、小学校~中学3年生まで柔道をやっていました。それまではそこそこスポーツマンとして?武道を極めるべく、頑張っていたのですが、諸々の事情があって、高校は柔道とは関係のない、北九州でも名の知れた悪~い^^;私立高校に進学することになりました。そこでは、それまでの練習練習の日々の反動もあってか?どこの部活にも所属せず、ま~~~、よく遊んだものです(笑)

当時のエピソードとしてまず浮かぶのは、入学直後のこと。入学式後間もなく、同じクラスのヤツに首にナイフを突きつけられ、「お前なめとんか?」と因縁をつけられました。正直なんの覚えもありませんでしたし、とりあえず、ナイフが首元にあってはさすがの私も動けない状況だったので、その場はにらみ返す位でおさめておきましたが・・・。

その男。先生達からも一目おかれていて、確かに番長格と言う雰囲気を出していましたが、そんなカレが一体私の何が気に入らなかったんでしょうね? 全く想像できません!(笑)

そんなこんなで、次の日。腹を決めた私は(いわれのない因縁に黙っていられるほど穏やかではありませんでした・・・あくまで、当時の話ですよ!(笑))朝早くから、登校して彼の机の上に胡坐をかいて座り待ちかまえていました。そして、待つこと一時間、カレがようやく登校。そして・・・・(以後はご想像にお任せします)。

教室に入るときは、肩で風をきって颯爽とやってきた彼でしたが・・・ その日以降、彼の机は何故かずっと、空席となったのでした・・・・・一体何があったんでしょうねぇ???(笑)

こうして、高校生活は、入学直後のこの出来事を始め、やんちゃの数々重ねてしまう、私なのでした。(しつこいようですが、あくまで、当時、の話ですから悪しからず。時効ですよ、時効!(笑))

だって。今の私の更正ぶり、、、いえいえ、好青年ぶりをみなさんご存知でしょう?www

つづく・・・・・・・・

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20年間の軌跡~9~

さて、今日はちょっと脱線して、当時の交友関係の話でも、、、、

なんといっても世話になっていたのは、私が居候させてもらっていた従兄弟の章二。カレを通じて東京でたくさんの友人ができたものです。カレは当時から絵がうまく、スピッツがまだ売れてない頃に、歩行者天国(ホコ天)で歌っていた頃のCDジャケットやちらし等のデザインは全部カレがやっていたんですよ。現在は当時からのその才能を生かし株式会社ジークでデザイナーをやっています。

そして、章二がらみで親しかったのがそのスピッツの草野。当時、まだ全く芽の出ないスピッツを皆で応援していたものです。プリンセスプリンセスのラジオ番組で草野が紹介された時は、ようやく世の中がスピッツのよさをわかってきたぞ!!!とみんなで大喜びしたっけ。。(とはいえ正直、ここまで売れるとは、思っていませんでしたが(笑))

あとは、中央大学に通っていて、とても賢いはずなのに、とてもそうは見えない(失礼)上野ってやつもいたな~~。

とにかく、みんなそれぞれ、当時の私とは全く違うタイプの人間ばかりでしたが、なぜかとてもよく気が合い、よくつるんで遊びに行ったり、飲みに行ったりしていたものです・・・・・・

つづく・・・・・・・・

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20年間の軌跡~8~

色々あたっているうちに、なんとか雇ってくれる先もみつかりました。さあ、東京でのアルバイト生活の始まりです!!

これまで少しはその業界で食べてきている私、バイトでの採用とはいえ、少しでも技術を認めてもらおうと、スケール、カッター、鉛筆、貼り道具等、九州からもってきた七つ道具をしっかり携え、、、

向かったのは、吉祥寺のとある看板屋。7,8人体制の工場で、営業は3人、現場は2人程度だったと記憶しています。初めての環境に少しだけ緊張しながら、そこへ、「今日からお世話になる上岡です、宜しくお願いします」と大きな声で挨拶して入って行きました。返ってきた、なれない標準語での対応にちょっと面食らいながらこうばの中へと足を進めると、、、

まあ驚きました。 工場はそうだな~70坪位のそれなりの広さ。その中に、1200h×12mw×600d位のステンレス(電照式)の看板が骨組みのまま置いてあったのですが、なんとこの看板、このこうばで最初から最後まで全て、作り上げるというのです。

「え・・・?板金屋には頼まないのですか?シート屋は使わないのですか???」

そんな私の質問に、工場長は、何を言ってるのかこいつは、みたいな顔をしながら「よそには頼まない、全部うちで作るよ。そのくらいの技術は持っている」と当然のように答えるのです。

確かに機械はいっぱいありました。それにしてもなにもかも、イチからここでつくるなんてそんなことできるものだろうか、作業する工程が多すぎる、分野が広すぎると思うのだけど。。。(当時の私の感覚では理解できなかったのです)

そうこうするうちに朝8時半、始業時間です。みんないっせいに作業をはじめました。ステンを曲げている人、カルプ文字を切っている人、シート文字を製作している人、溶接をしている人、シルク印刷をしている人、、、どうやら完全分業制のようです。なるほど、一人一人が、別々の専門技術をもっていて、それぞれの専門分野を担当してるわけだな、、、。そう思いながら見ていたところ。

しばらくすると、工場長の合図で、なんと、全員がそれまでの作業をやめ、別の作業へと、作業内容をローテーションしたのです。 さっきまでシートを切っていた人が溶接をしていたり、板金屋のような作業をしていた人がカルプ文字を切ってみたり。

そう、ここは小さいながらも、全員が、あらゆる作業をこなせる、スペシャリストの集団だったのです! そして、一つの作業だけに従事していると、飽きや疲れが出やすく、作業効率が下がる。一定時間ごとにローテーションすることで、常に新鮮な気持ちで作業に取り組め、効率もあがる。ここの工場ではそういう理念のもとに、ローテーション制を採用していたようです。

それにしても、全員がなにもかもこなせるなんてすごすぎる!東京はこれが当たり前なのか?自分が今まで看板屋として得た技術なんて、どれ程限られた、ほんの一部分のことだったんだろう、、、。ものすごくショックでしたね。まさに自分が井の中の蛙であったことを知った一日でした。

そうそう。余談ですが、驚いたことがもう一つ。

この会社。休憩が、ありえないくらい多いのです(笑)。 10時から30~40分、昼休みは当然1時間、午後3時にも休憩を挟み、5時半にはきっかり終業。労働時間のなんと短いこと!!!でも、これもここの工場長のポリシーだったようです、短時間に、集中して作業すること。そのほうが間違いなく効率がよいと、、、、

それにしても、休憩多すぎだろう!!(笑)

そんなこんなで、とにかくショッキングーなことばかりの初日でありました・・・・

つづく・・・・・・

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20年間の軌跡~7~

はやいな~もう7話か~~!最近ブログが楽しくて・・・

さて、東京での生活が始りました。典型的な夜型の従兄弟の章二と、昼型の私。12時には寝たい私と毎晩夜中の3時4時まで起きている章二とでは生活時間帯が合わず、よく喧嘩したものでした。

それはさておき、さあ行動開始、まずはNTTの電話帳をかたっぱしから見て、大きくやっている看板屋でバイトさせてもらい、技術を盗もうと思いました。

国分寺は田舎だったけどこのあと衝撃的な光景を目の当たりにする私なのでした。

つづく・・・・・・

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20年間の軌跡~6~

都会の技術を学ぶんだ!

大都会東京には何かあるはず!

。。。。 当時から行動力だけ(笑)はあった私は、国分寺にすむ同じ年の親戚(武蔵野美術大学在学中)を頼りに、様々な夢や野望を胸に、東京へと出発したのでした。

そしてたどり着いた東京、親戚宅。カレの下宿はとても汚くて狭く、私の寝るスペースなど到底なかったのですが、とりあえず、「今日から世話になる、頼むの」と一言告げながら上がりこみました。親戚は「困るよ~^^;」と言いましたが、近くの定食屋でしょうが焼き定食(大盛)をおごると一転「しかたないなぁ、何時までおるんか?」と。現金ですね(笑)そんなこんなで、その日から、そいつとの期限未定の共同生活が始まったのです・・・・。

とりあえず、何はともあれ東京見学!(笑)   行動はいつも夜中でした。新宿の高層ビル群、東京タワー、横浜ベイブリッジ、、、色々いったな~~。

そうそう、そういえばこの頃はいつも一緒に草野とも行動していたものです。。。そう、今「スピッツ」のボーカルの草野君です。あの頃は、こんなに売れるとはまず思ってなかったなあ・・・

つづく・・・・・・・・

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20年間の軌跡~5~

そんなある日、当時21才の私のもとにふらりと同級生の仲間がやってきました。同じ大学を中退した吉川と、同じ高校だった友定です。

そこで、何故かなりゆきで、ほとんど売上もない状態のままいきなり2人の従業員をかかえることになり・・・頭のきれる吉川と、黙々と作業をこなす職人肌の友定と、3人体制での新しいマーキングニーズがスタートする事になったのです。

まずは、中古で買った営業車(15万円の軽で、重ステ、箱バン、クーラーなし!)で3人で飛び込み営業に回ってみることに。商店街の隅に車を止め、店舗をかたっぱしから回り、名刺を配り、営業活動をしてまわりましたが・・・2週間そんな日々に明け暮れても、結果、売上は3人で5,000円(涙)。他にも色々なことをやってみましたが、何をやっても全くうまくいきませんでしたね・・・。世の中の厳しさを痛感!

結局、最初の月の売上はなんとたったの15万円しかあがらず、、、 でも、経営者として、給料を払わないわけにはいかない!と、15万に私のなけなしのバイト代を5万合わせて、二人に給料を10万ずつ渡しました。恐縮する二人に、いいよいいよと言いながら、陰で涙を呑む私なのでした・・・

こうして、苦しい日々はまだまだ続くのですが^^;、そんな中、ある日突然、何を思ったのか、二人に会社をまかせて、東京に行ってしまう私だったのです。

つづく・・・・・・・・

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20年間の軌跡~4~

まずは、やはり親父の会社に挨拶に行きました、「今日から頑張る事にしました、宜しくお願いします」

しかし、それですぐ仕事をもらえるほど甘くはありませんでした。バイトの時あれだけうまいと言われていた作業も実際プロとして通用するレベルではなかったらしく、「お前にはまだ金は払えんわ!通常の半額程度でよければ考えてやってもいい」などと言われてしまいました。

ひどい言われ方に、くそ~~~!!っと思いましたが、ここはぐっと飲み込んで。修行のため、今後のためと、半額でも仕事をさせてもらうよう頭を下げたのです。プロとしてお金をもらう、稼ぐということの厳しさをまずここで実感したのでした。

そんな調子で始めた看板屋「マーキングニーズ」ですが、最初はやはり仕事もめったにまわしてもらえませんし、開店休業状態で、暇な時間を過ごす毎日でした。

看板の仕事がないなら、他のことでもして、とにかく何か少しでも収入を得なくては、と、当時は空いた時間に色々なアルバイトをしたものです。

まずは、知り合いの土木建築屋でのバイト。ここでは、荷物運びやアスファルトのならしなどを手伝い、約2ヶ月間、日給7500円をもらっていました。

それからラーメン車(これは最高に面白かったな~~)。朝1時間仕込みをして、夕方から深夜2時頃まで販売していました。売り上げは平均すると13,000円位で、取り分はオーナーと折半だったので6500円マイナス材料費。深夜まで働いてもこの程度だったので、割りにあわない仕事でしたが、これが結構楽しかったのと、意外と性に合っていたのでしょうか、昼間は看板屋をしながらも1年間、2足のわらじ生活を続けたのでした。

あとは、会社(兼自宅)の場所が、北九州市民球場の目の前なので、野球のある日はいつも、会社の前で迷わず生ビールを売っていたものです。生ビールのサーバーもレンタルして来て、結構本格的に売っていたのですが、これも結局、1日やって儲けは3000円位だったかなあ~~。

 苦しい下積み、修行時代。ちょこちょことある看板の仕事と、こういうアルバイトで、なんとか食いつないでいた日々なのでした。

つづく・・・・・・・・

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20年間の軌跡~3~

さて、またまた無職になってしまった私・・・、この先何をしようか考えました。

実は兄貴と一緒にやっていた頃、私はお客さんとまともに話すことが出来なかったのです。看板屋としては当時はまだバイト程度の知識しかなく、色々質問されてもちんぷんかんぷんで満足な応対ができませんでした。

そんな状態で一人で看板屋を続ける自信はなく、たこ焼き屋、焼鳥屋、ラーメン屋、、、なにかそういう新しい商売をはじめるのもいいかな、と考えてみたものです。

ただ、色々考えてもやはり手っ取り早いのは看板屋。それに当時の私にも得意分野もありました。それは、カッティングシートの手切り。当時はまだカッティングマシーンはほとんど普及しておらず、シートは手切り、もしくは筆書きでの施工でした。そんな中、私は誰よりもカッティングシートの手切りが早くてうまかったのです。

そこで、20才の私の一大決心。・・・せっかく身につけた特技を生かしていこう、知識はやっていくうちについてくるだろう、(それに、看板屋勤務の親父に頼んで少しは下請けもさせてもらえばいいか、などというちょっと甘い考えもありつつ(笑))よし、看板屋を始めよう!!!

それが、若干20才の時に名付けた、屋号「マーキング・ニーズ」の誕生なのでした。。。

つづく・・・・・・・

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当時の写真(19歳の私)

おれ19
なつかし~~~~左側の悪そうなのが私です。(今はかなりまじめですよ・・・笑・・・)

右側が同じ大学で商学部だったせみです。(あだなです)

ちなみにせみは、牛乳屋の息子でいつもせみの下宿の冷蔵庫にはパンと牛乳が入ってたな~~よくもらってました。

当時は、見ての通りのかなりのヤンキーな私なのでした。

つづく・・・・・・

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20年間の軌跡~2~

19才の夏、バイトに明け暮れた7~8月が過ぎ・・・。さて、お待ちかねの給料日です!現金をにぎりしめ、当時一番仲のよかった友達と一緒に門司の小さな中古車屋に行きました。

ただ、気に入った車はどれも予算オーバー!結局予算内にたどり着いたのは幻の名車、三菱のランサーセレステ。10万円ちょうどの安くてかなり古い車でしたが、何せ人生最初の車。うれしかったな~!宝物を手に入れたあまりの喜びに、無理矢理中古車屋にかけあって、その日そのまま乗って帰らせてもらった私なのでした・・・・(笑)

さて、車は手に入れたものの維持費もなく、デート代もなかった私ですが、当時は特に就職しようとは 思っていませんでした。

ぶらぶらしていたそんなある日、大阪の内装屋に就職していた兄貴から連絡があり、<看板屋を始めるけ、手伝え>と言われ当時2人ではじめたのが、アート・ユーという看板屋でした。最初の半年は壁画を書いたり、車の文字入れなど結構仕事があったのですが、8ヶ月目に突入したぐらいから、仕事がなくなりはじめ、経営がうまくいかないこともあり、兄貴とも大喧嘩になり、残念ながら1年足らずで廃業。

そして、兄貴は別に就職をきめ、1人取り残された私は・・・・・・・・・・ つづく

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